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エッセイ
ああ言えばこう言え!
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ああ言えばこう言え!その27

 作家の未発表作品なるものが話題になることがある。
未発表ではあっても、興味深いものが多く、文芸雑誌の特集には必ず目を通すことにしているのだが、私にとって唯一謎の未発表作品なるものがあって、それは現在のところ全く闇の中の状態である。
 高校生の時、大嫌いな数学の時間となれば、私は決まってトイレに逃げ込んでいた。何度もトイレに逃げ込むものだから、先生から「一度君は泌尿器科に診てもらった方がいいぞ」などとアドバイスをされたほどである。
 ある日、私はトイレに逃げ込むべく、廊下を歩いていた。各教室から先生の声が漏れている。
ある教室の横を通り過ぎようとした時、私は耳を疑った。どうやら国語の授業らしく、先生は熱弁を振るっている。
「いいか!森鴎外は『舞姫』もよいが、俺はやっぱり『カモ』が一番だ。何たって『カモ』だ。一度読め!いいか、『カモ』だぞ!」
森鴎外の『カモ』。はて、そんな作品があったのかしら。屈指の読書家を自負していた私は、頭の中で森鴎外の作品を素早く検索したものの、『カモ』など全く引っかかってこない。検索エラーである。『雁』なら知っている。
しかしそれは『カモ』ではない。『雁(ガン)』である。どうも様子がおかしい。
 後日、私はその先生を訪ねることにした。森鴎外の『雁』を目の前にして、私は先生にこう言った。
「先生、先生がお気に入りの『カモ』はこれですか」
先生の顔が青ざめた。顔が引きつっている。微かに手が震えている。何だか私は嬉しくなってしまった。
ところが先生はこう逆襲してきたのである。「実は、あれは本当に『カモ』なんだよ。いい作品だよ」
 私はいつか必ず『カモ』という作品を読みたいと思っている。だから一生懸命探そうとしている。
しかし、恥ずかしくて「森鴎外の『カモ』を知りませんか」などと聞くに聞けない。全く闇の中の状態である。

甲山羊二
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