MyBlog Ver1.40



甲山羊二オフィシャルブログ
Writing by 甲山羊二
 オフィシャルページにある奥の部屋で、コラムでもなく、エッセイでもなく、もちろん小説でもない、ただのつぶやきをほんの少しだけ形にしようとする。
 僕がつぶやくことで僕自身が導かれ癒され納得する。
 それもいい。
 さすが典型的B型人間甲山羊二だ。
 だからいい。やはりいい。


■公式ホームページ


油断禁物
人には必ず表と裏の顔がある
そんなことは周知の如くで…
僕だってうちに帰れば決して他人には見せない顔を家族には惜しげもなく披露する
言葉の使い方だって同じだ…
我が家は王家や皇族や或いは貴族や公家の残存の類ではない
僕が敬語を用いるのは決まって間違いなく妻におこずかいをおねだりするときに限られる…

だから二枚舌や三枚舌も僕には十分に許容の範囲で、それを批判しないしまた誰からも批判される筋合いはない
ただ少し困りものなのは自分の都合に合わせた虚実をのうのうとのたまう悪知恵からくる最悪舌だ…
自分の都合さえまかり通れば身近で親しい相手でさえも簡単に自分の虚実の材料にしてしまうこの類
最近も後から僕の耳に入ってきた話しで実は僕自身がその材料に巻き込まれていることが分かった…
相手は何とも意外な人物だ

もちろん大事ではないし被害と言えるほどのことも今のところ特にはない
けれども最悪の場合は僕が僕自身の居場所を失う
そういう可能性だってあることにはあった訳だ…

他人の居場所を不当に侵害するとどうなるか
答えは極めてカンタン
侵害した本人が必ず同じ目に遭遇する
それも殆ど時間を置かずにそうなる…

僕はそういう事例を何度も見てきた…
だからこそここではっきりとそう言えるのだ

いずれにしても油断禁物かつ油断大敵
何かヤバい
そう感じるときは実は本当にヤバい

適度な距離
適度な間隔
人間関係はやっぱり難しい
いや時には遠ざける勇気…
そして…
何より良い加減がやっぱりいい
2014-09-24 12:45:19[317]


新聞並びに週刊誌一考察
僕は新聞を読まない
こういうと無教養な人間だと非難を浴びそうだが…
新聞は読むものではなく眺めるもの
これが僕の新聞に対するスタンスだ

新聞の記事にどこまで信憑性と正当性を求めるのかという議論も僕によっては呆れるほどに些細なものに過ぎない
新聞各社も所詮は組織
組織存続のためにはきわどい効率とぎりぎりの不合理が混在するのはやむを得ない
それは証拠に…
いまだに新聞勧誘には必ずといっていいほどおまけが付く
演劇観覧招待
○月購読無料
時には日用品まで
これをやらないと購読者はそっぽを向く

週刊誌もある意味で眉唾ものだと思うが…
過去を振り返れば分かる
政治家や官僚達の金脈など既得権益を暴き出し、さらには時の政権に物言いを付けたのは、新聞ではなく実はこの眉唾物の週刊誌だった
ただ残念なことに週刊誌には講読者への日用品配布はない…
ない代わりに時々エロ記事をもって我々を楽しませてくれる

僕はそもそも組織を信用しない
組織はいとも簡単に人を裏切る
新聞も週刊誌もそうした組織によるものなのだから、僕にとっては両方とも信用するに値しない
もちろん地域密着の小さな新聞社が取材に取材を重ねて独自性を強調して運営を続けている事実も僕は知っている
そして全くもって頭が下がる…
ただそれは極めて特異なケースだ
だから時に注目を浴びるのだろう

結論として
新聞はよく眺め週刊誌は文字を追う
だから何事があっても両者に対しては腹を横にいられる
僕はそう考えている
2014-09-18 14:38:30[316]


哀悼の流儀
単なる知人や元友人の誰某が亡くなったといった訃報が多くなった
特にここ2,3年は急な増加傾向だ
大体がこういう類の知らせは周り回って僕のところにやってくる…
そしてこれも殆どの場合葬儀の後だ…

そもそも僕は単なる知人や元友人の葬儀などに参列することはない
僕にとって葬儀とは亡くなった人の死を悼むものというよりも、遺された遺族の方々の心中を察するためのものという意識の方が強い
もっとはっきり言えば…
遺族との交流を継続するのか否かが参列するかどうか決めるひとつの大きな見極めになる
単なる知人や元知人の場合だけではない…
実は殆どつきあいなど途絶えてしまった親戚でさえこの基準に照らす…
だから僕は血も涙もない冷徹で冷酷な人間だと評され噂されるのだろう
なるほどそれはごもっとなことだと思う…

ではあえてそこでと居直ってみたいと思う
他人の死を悼むという行為は葬儀以外に局面でも十分可能なことだ
いやむしろ周囲の目にされされながら否応なしにやるものではない
墓参りもわざわざ告知する必要などない
また特定の時期に合わせることもない…
それは極めて厳かなもの
そして心静かにやること…
それが人の死を悼むという行為だと僕は思う

時々通夜か葬儀の帰りと思しき集団と料理屋などでばったりと出くわすことがある…
話の内容は概ね参列しなかった者の悪口か早々に退散した者への強烈で辛辣な罵倒だ
場合によっては死者もしくは遺族の誰それに対する陰口へと移行することさえある…
生きている人間の群れなど所詮はこういう程度のものなのだろう

因みに僕は家族にいつもこう話している
僕が死んだら葬儀は要らない
誰にも知らせてはいけない…
普段通りの生活を続けなさい
問い合わせがあったならば…
毅然としてこう答えればいい
「先日真の友人たちとともに無事見送りをすませたところでございます」
それが僕の唯一の願いなのだ
2014-09-04 12:29:35[315]


今一度小林秀雄
これは事実あったことだからあえてここに書くことにする
勤務先の学校のある社会科教師と僕との会話の一部始終…
社「最近のセンター試験はどうも珍問が多くて困ります」
僕「国語の問題に限ってはそうとは言い切れませんが…」
社「国語もだいたいが同じようなものだと聞きましたが」
僕「昨年のセンター試験の国語の評論問題ご存じですか」
社「いや実はそういうものはあまりよく見てないんです」
僕「出典が小林秀雄だなんて僕は相当粋だと思いました」
社「そういえばテレビで最近は小林秀雄をみかけません」
僕「失礼ですが先生は小林秀雄をのことをご存じですか」
社「あの方時々バラエティー番組にもでてましたよねえ」

それから直ぐに僕はこの相手との奇妙な会話を無理矢理に止めた…
余りにも格下な相手との会話は僕自身の健康と文化を損ねてしまう
そう判断したからだ

小林秀雄を読破したのは僕が高校生の時
図書室の可愛い司書の先生から勧められるままにひたすら読んだ
『Xへの手紙』
『ドストエフスキイの生活』などなど
そして『本居宣長』で完全撃沈をする

小林秀雄は僕にとって文章とは筆力とはさらにものの見方の本質とは何かを教えてくれた影の教師でもある
何より『本居宣長』に至っては国学への目を与えてくれた
実はその後に島崎藤村の『夜明け前』へと僕は到着をする
こういう読書の仕方もある

今夏ある機会があって再び小林秀雄に熱中した
小林秀雄から丸山真男へ、江藤淳から吉本隆明へ、三木清から加藤周一、西田幾太郎と山本七平、さらに西尾幹二を経て小林秀雄へ…
これらは一見トンチンカンで脈絡のない読書遍歴に映るかもしれない
でもそれはそれでいいのだ
戻るべき場所へまた戻れた
そう思えるところにも読書の楽しみがあっていい
そう僕は思う
2014-08-21 19:44:15[314]


地球に触れる旅
50歳を前にして僕にも多少なり心境の変化が生じている
多少なりの心境の変化…

関わりたくない人と突然関わりたくなった…
親友と呼べる相手を極力多く作りたくなった
誰にでも笑顔で愛想良く接してみたくなった
ではない
全くない
断じてそんなことはない

はっきり言おう
足腰の丈夫な間に…
胃腸の丈夫な間に…
できるだけ多くの旅をしたい
ただゴージャスな旅ではない
大地を踏みしめ空気を満喫できる旅…
人間が自然の一部であることを実感できるそんな旅
例えば屋久島
小笠原


自分の足で歩く
自分の手で掴む
それができる…
そんな場所に行きたい

買い物もゴルフもカジノもしない
ただただ自然と触れ合える
それだけでいい
これらは僕にとっては大きな心境の変化だ

端的にいえば地球に触れる旅
或いは地球そのものを感じる旅ということになろうか

しかしながら…
心境の変換かぁ
……と自分で思う

50歳
イヤだねぇ
そして実に複雑だ

そんなことを思う僕はやっぱり少しは若くない
2014-08-06 10:31:01[313]


課題図書一考察
甲山さんの好きな作家は?
こういう質問をこれまでどれだけ受けてきだろう
おそらくイチロー選手の安打数を遙かに越えているにちがいない
そうなれば僕の失恋の数とほとんど違わない計算にもなるはずだ

話を元に戻そう
僕の好きな作家は赤江漠だ
この人の作品は全て単行本で持っている
それに他人から求められても貸し出しは決して行わない

作家赤江漠
ミステリアス
人間の表と裏
見事な筆力…
いつか課題図書にと思っているのだが残念ながらいまだに実現していない

課題図書といえば大宰治や芥川龍之介や夏目漱石がほぼ定番
僕の高校生の時の課題図書は夏目漱石の「こころ」だった…
『作中の先生という人物は一体何で生計を立てているのかさっぱりわからない。相当におぼっちゃまなのだと思う』
読書感想文にそんなことを書いたら先生から呼び出しを受けた
『キミねえ。明治という時代の先生はとても偉かったの。だからこういう優雅な暮らしができだのだ。分かるかい』
『なるほど、じゃあ今の先生は偉くも何ともないからあくせく働き、挙げ句生徒を規則で縛り上げているのですね』
もちろん先生は激怒され、僕もそんな先生に呆れた。もう随分昔のことだ

読書は本来自由ものだ…
だから好きなものに偏る
その偏りをちょいと修正して別の方向を示せるのもまた課題図書ならではといえる

これまた話は変わるが…
僕が勤務する学校の定期試験に「山月記」の作者を問う問題がでた
正解は中島敦だ
でも数枚の答案には甲山羊二と書かれていた
叱咤激励
ちょっとジャンルは違うが中島敦を越えてみたい
僕はそう思った
2014-07-17 12:53:22[312]


電車作家
僕は電車に乗るとまず無口になる
別に気分が悪くなるからではない
もちろん怒ったり拗ねたりしているわけでもない
そういう場合もなくはないが実際は極めて稀だ…
電車は黙って乗る
飲食など以ての外
車窓からの景色を楽しむ
いや運転士と一体になる
これこそが電車の醍醐味だと僕は思う

実はもう時効を過ぎたがら言えることだけれども…
僕にはこれまで2度ばかり電車の運転経験がある
しかもちゃんと本当にお客さんが乗っていたのだ

最初は…
場所はとある遊園地
因みに現在は閉園して影も形も面影すらうかがうことはできない
時はかれこれ30年も前のこと
園内周遊列車の案内係のアルバイトしていた僕はうまく頼み込んでその列車の運転をさせてもらった
それはもう嬉しいやら緊張するやら…
もちろん隣には本物の運転士が座った

2度目は…
やはり時は同じ…
場所も同じ遊園地
今度は園内モノレールの運転をした…
もちろんやはり隣には本物の運転士…
この時は少々スピードを出し過ぎてちょいと指導を受けたことを鮮明に記憶している

僕の事務所には電車のシュミレーターのソフトが沢山ある
疲れた時
急に書けなくなった時
僕はソフトであくまでもソフトで運転士になって電車を動かし見事に停める

電車作家
そう甲山羊二は正真正銘の電車作家なのだ
2014-07-10 16:10:10[311]


知覧で見たもの
先日、鹿児島県の知覧へ出かけた
知覧は言わずと知れたかつて陸軍特攻基地があった場所だ
隊員たちが特攻直前に綴った遺書
父や母から息子へと宛てた手紙…
日の丸に記された隊員たちの寄書
最後の写真…
遺品の数々…
記念会館に展示されたそれらひとつひとつに涙を誘わないものなどひとつもない
そして戦争の悲惨さと残酷さと平和であることへのあらためての思いが交錯する…

平和は必ずそこにあるものではない
それは決して連続するものではない
むしろ非連続で時に幻想で時に忘却の対象ともなりうる
平和は人間にとって極めて厄介な要素ともなりうるのだ

さらに言えば…
個人の幸福と国家の平和も必ずしも一致するものではない
個人の平和とは言わない
国家の幸福とも言わない
国家は利害の元で平和を追求するが、個人は利害を排して幸福を感覚化する

さらに僕はと言えば…
国家の歴史と個人の歴史もやはり相容れない
残念ながら日本という国家にあるいは世間に見切りをつける生き方だって未来にはまだ残されている
そういう選択肢もやはり厳然として存在する
いつの時代も国家と個人は必ずどこかで乖離していなければならない

そうした国家と個人を密着させる便利な言葉がある…
それは国民という言葉だ
時にそれはナショナリズム的要素を強く含んだ言葉へと意図的に変えられていく
そうやって個人は崩壊していく
いや崩壊させられていく
だからこそ戦争は悲惨で残酷なのものなのだ

特攻で散華した若者と現代の若者とを安直に比較してはいけないと僕は思う
時代を違えての比較は何の意味をも持たない
ただひとつ
もし現代の若者が個人を持たず国民とは何か国家とは何か平和とは何かを全く考えなくなった時
その時歴史の真実は埋もれ事実だけが浮遊する
問うことを忘れた時
その時大東亜戦争で散った英霊の意思も特攻で散華した若者の意思も遺された者たちの無念さも何もかもがただの遺物となる

知覧で僕が見たもの
それは僕の妄想であってほしいが…
スマホとゲームに熱中するあまりバーチャルと現実を取り違えた哀れな若者たちの姿
それだったように思う
2014-06-25 11:17:06[310]


僕と僕
これは僕にとって小説を書く上で大切なテーマだ
僕の作品は僕という個人に接近を試みなくても、それそのものとして十分に完結している…
要するに手前味噌だが僕という人間と作品はそれぞれがきちんと独立した体裁を整えている

時々読者から丁寧なお手紙を頂く
例えば「優雅なるトマトケチャップ」ならばそこに登場する僕は書き手としての僕そのものとは違う
けれども読み手はそうは捉えない
僕は毎日赤ワインを嗜んでいて…
何時も過去の恋に思いを馳せて…
星を眺めて…
さらに今でも恋を楽しんでいる…
読み手はほぼ間違いなく書き手の僕と作中の僕を完全に重ね合わせてしまっている
残念ながらそ真実はそうではない

星も眺めるがグラビアを隅々まで眺めることもある
エッチなことを考えるのも決して嫌いな方ではない
赤ワインも飲むが冷たいビールジョキもいとおかし
過去の恋に思いを馳せることももちろんあるけれど、だいたいが振られて自暴自棄になったという思い出が多い
今度出会ったら振ってやる…
見る目がなかったおまえ自身を悔やむんだな
なんてことを思う時もある…

つまりはモチーフそのものは事実であっても、作中の僕はもはや書き手の僕を離れている
書き手の僕は作中の僕を動かし語らせていく
僕は僕と格闘する
作品はこうして出来上がる

実はそれは作中の僕の限った話ではない
僕は僕と格闘しつつも一方では他に描いた人物とも呼吸を整えていく必要がある

僕と僕
そうして僕はまた今日も格闘しなければならないのだ
2014-06-12 15:44:29[309]


自転車免許
自動車も時に凶器になりうると同時に自転車もまた十分に凶器となりうる
これはかつて僕がひとりの歩行者として経験済みだからそう言えるのだ…

自動車と同じく自転車についても免許制にするのがよろしい
とはいえトンチンカンで馬鹿でアンタッチャブルな連中が自動車を運転するのと同レベルな連中が自転車を運転することはやはり避けられない
2流どころか3流の人間はどこにでも平気で生息している…

それにだ
自動車運転免許に利権や既得権益があふれているのと同じく、必ずや自転車免許にも同じ状況が生まれるとも考えられる
免許更新の際の郵送費用は通常の料金とは桁違いに高額だ…
何よりやる気のない講師のレクチャー程無駄なものはない…

結局はどうあがいてもマナーは個人の資質によることになる
個人資質
実はここなんだ…
なるほどなるほど
2014-06-05 14:52:32[308]