MyBlog Ver1.40



甲山羊二オフィシャルブログ
Writing by 甲山羊二
 オフィシャルページにある奥の部屋で、コラムでもなく、エッセイでもなく、もちろん小説でもない、ただのつぶやきをほんの少しだけ形にしようとする。
 僕がつぶやくことで僕自身が導かれ癒され納得する。
 それもいい。
 さすが典型的B型人間甲山羊二だ。
 だからいい。やはりいい。


■公式ホームページ


良い導き手
『霊と肉』(講談社学術文庫)山折哲雄著

古典の講読には良い導き手が必要だ
それもテーマごとにとなればかなりの贅沢になる
受験の古典は虚しいが本来の古典とは教養と知識と知恵の宝庫だ
自らが今何を古典に求めるのか…
それによりアプローチは異なる
だから贅沢ではあってもテーマごとの導き手はやはり必要だといえる

人間は見えないものを恐れ同時にそれに何らかの期待を寄せたがる
ところが科学が進歩した現代は恐れも期待も相当に減退している
だからこそ恐れと期待の真髄を掘り起こす良い機会が必要なのだ

本書はそうした期待に十分に答えてくれるものだ
テーマは霊と肉
目に見えるものと見えないもの
それらを古典の世界に求めて人間そのものを洞察しようと試みる
まさしくとっておきの導き手だ
2017-08-21 10:45:57[415]


甲山流休み一考察
僕には夏休みがない
正確にいえば夏季休暇といったようなまとまった期間の休みがない
もちろんお盆休みだってない

甲山は一体何時休んでいるのかといったお節介な質問をよく受ける
何時休もうが僕の勝手だ…
基本的に僕はまとまった休みというものを取らない
仕事で一段落ついたら休む
疲れが溜まったらまた休む
次の仕事までの充電として休む
扁桃腺を腫らし熱が出たら休む
だから尊い世間様とはおおよそ休みが異なる
そこでこれまた尊い世間様から随分好奇な目で見られてしまう訳だ

世間様がせっせと意義深いお仕事をされておられる中で僕は時々冷えた麦酒を飲む…
世間様が日本経済のさらなる発展のために邁進されている間に僕は旅行に出かける…
そしてそこで買う意味不明なひんしゅくさえもしっかりネタにする

休みは自分のためそして家族のためにある
夏休みも全く同じだ
僕は尊くない
だから尊い世間様とご一緒では何分申し訳ない
凡人たる僕は凡人なりに脳ミソを駆使しながら色々考えているのだ
2017-08-07 06:45:45[414]


法医学
『死体格差-解剖台の上の「声なき声」より』(双葉社)西尾元著

生きている人間はいつか必ず死ぬそれは必然で逃れようはない
だから人は死を恐れ忌み嫌うのだろう
さらに人はその死の選択について特別な事情のない限り自由とは言えない
少なくとも死に方に選択の余地はない
死を遠ざけたい心情はそこにも要因がある

本書は法医学という見地から生々しく死を捉える
必要以外の情緒を排して死を真っ直ぐに捉える
それは極めて斬新でかつ新鮮だと思う
さらに読み手に深い考察すら与えてくれる

作家にとって死は作品を通してのみ身近なものになり得る
僕も作品の中では随分人を殺めた
当初の後ろめたさも今はほとんどない
もちろんそれはそれで仕方がない
ただリアルな死はそうはいかない
やっぱり恐れの対象であり…
忌み嫌うべき対象でもある

僕もいつか死ぬ
幸せな死とは何だろう
考察はまだ始まったばかりだ
2017-07-15 08:38:44[413]


シカシダ君のこと
『全作家短編集16巻』に新作「シカシダ君のこと」が掲載された
シカシダ君はもちろん小説上の架空の人物だ

作品では大人の欺瞞を隅々に描写させた
大人の欺瞞…
それが集約された箱物組織とはまさしく学校だと僕は思う

教師は対面を取り繕う
厄介なのは自らの能力や所作は社会から良好な意味で認知されていると思い込んでいることだ
実はそんなことはない
教師は平気で嘘をつく
対面のためなら平気で事実を捻じ曲げる
それらによる被害者は児童であり生徒であり社会であることを知らない
いや知っていても知らないふりをする
これが欺瞞だと僕は言うのだ
教師なんて所詮そんなもの
そんなものしか教師になっていない
まともな人間は教師などにはならないのだ

シカシダ君は大人の欺瞞によって抹殺される
シカシダ君を葬ったのは実は先生だった
にも関わらず欺瞞をもて遊ぶ先生…
僕はより多くの欺瞞的な学校の先生にこそこの作品を是非とも読んでもらいたいと心からそう願っている
願いは届かないだろうけど…,
2017-07-01 13:29:55[412]


世間と世間体
『「世間体」の構造』(NHKブックス)井上忠司著

日本は極めて不思議な国だ
生まれてこの方長く日本人をやってきてつくづくそう思う
結論から言えばムラの蓄積がこの国のカタチだということになる
近所というムラ
職場というムラ
宗教というムラ
親戚というムラ
同窓というムラ
あらゆるムラムラムラ
山本七平流に言えばムラは所謂心情的な共同体に過ぎないということになる
つまり情緒的属性がこの国を支配しているという訳だ
だから当たり前の議論はできない
ただし当たり前の陰口と寄合と談合は得意中の得意になっていく

本書は社会心理史の立場から世間体を掘り下げている
これを読んだらまた無性にあの『甘えの構造』を読みたくなった
読書とはそういうものだと思う

僕は陰口は言わない
言うべきことは直接本人に伝える
陰口を言われたらどうするか
基本は放置する
酷い場合は法に照らして対処する
今までもこれからも変わらない
ただしこういう対処は日本人的でないから当然嫌われ疎まれる
だがしかしだ
日本は放置国家ではなくれっきとした法治国家だ
相手が誰であれつまらなくくだらないムラの情緒になど流されない
ムラなどクソ喰らえ
僕はそういう考えなのだ
2017-06-17 01:30:24[411]


芸術かぼちゃ
『無限の網』(新潮文庫)草間彌生著

草間彌生といえば瀬戸内海浮かぶ島の例のかぼちゃを思い浮かべる…
先月終了してしまった東京での美術展
僕の東京行き計画が頓挫したのは理由があってのこと
それはひょっとしたら瀬戸内海のあの芸術かぼちゃを先ずは見るべしとの神の導きかもしれない

所詮芸術などは道楽に過ぎない
これは多くの日本人が持つ偽らざる考えだろう
経歴こそが、組織における肩書こそが或いは属性こそが、ビジネスにおける実績こそが、日本人の支えである訳だからそれもやむを得ない
だから定年退職後もボランティア活動と銘打って何時までも肩書やら属性やらに強くしつこく拘り続ける
ただし自分では何ひとつ創造すらできない
そうやって社会の寄生虫と化してしかもその自覚さえなしにひたすら生き延び続けることになる

本書はそんな日本人の性根を見事にぶった斬っている
この国には個人主義も個もない…
あるのは沈黙と笑顔とその奥にある排他と排除の心だ
その負のベクトルが芸術と芸術家とそれを愛する者へと向けられる
だから才能が流れていくのだろう
草間彌生は日本人を知っている
本書は日本人論を語るにまさに必携の一冊だと思う
2017-06-05 00:00:40[410]


戦後を辿る旅

『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院)富田武著

昨年、舞鶴にある引き揚げ記念館に行った
僕にとってそこは靖国神社そして知覧から始まった「戦後を辿る旅」のひとまずの終着点としての位置付けだった

舞鶴という町は確かに或る意味僕をセンチメンタルにさせ、また或る意味僕を鼓舞させるには充分な雰囲気を醸していたと思う
海、港、赤レンガ倉庫、水兵、海上自衛隊など…

ただこの際だからはっきり言おうと思う…
引き揚げ記念館そのものに僕は随分失望した
展示の中身
さらにはその規模…
記念館としていったい何を後世に残そうとしているのか
その意図するところが僕には皆目理解できなかったのだ

歴史は人間が拵える
人間にだって表と裏がある
だから歴史にも表と裏があるのは至極当然だ
その意味で記念館は僕の知的好奇心を満足させはしなかった
人に考察を与えるのは難しい
表と裏
視点は双方に向けられるべきではないのか
迎えの家族に目もくれずに桟橋からインターナショナルを合唱しながら代々木に向かった
そうした歴史もまた厳然たる事実として晒すべきではないのか

本書は資料として上級だと僕は思う
なぜか
後世に語られるべきこと
表と裏
そこが明確に示されているからだ
表裏一体
歴史も同じだ
全てはお目出度いことばかりではない
歴史は嘘をつかない
人もまた歴史に嘘を与えてはならない
2017-05-22 00:15:10[409]


餅は餅屋

『民警』(扶桑社)猪瀬直樹著

民警とはまさにその言葉通り
所謂民間警察のこと
僕も個人的に随分お世話になっている

公権力下にある警察は事件にならないと動くことはない
時々事件になっても動かないことがあるからこれまた厄介極まりない
真面目に真摯に職務に取り組んでいる警察官にとって迷惑極まりない話だろう

民警は事件を未然に防ぐ
或いは起こった事件を素早く更に手際良く警察へとバトンタッチする
事件の解決はここから始まる
本書はそうした民警の歴史をきちんと紐解いてくれる

猪瀬直樹という作家
眼力と取材力と筆力はとにかく鋭い
なぜこの人が政治の世界になんぞ分け入ってしまったのか
僕は今なお理解に苦しむ
そしてようやく帰ってきた猪瀬直樹
やっぱり餅は餅屋でいい

話は変わる
先日楠公ゆかりのある神社へ行った
朱印をお願いしたらスキンヘッドの神職がガムを噛みながらそれに対応してくれた
政治家になってはいけなかった猪瀬直樹
神職になってはいけなかったその男性
もちろん全然比較にはならない
2017-05-08 07:15:01[408]


かえる兄弟

先月、新作掌編「かえる兄弟」が文芸誌『さくさく』67号に掲載された
甲山流お得意の皮肉ユーモア
読者にはじっくりたっぷり楽しんでもらいたい

昨今は日本人のマナーの悪さが半端ない
特に老人のそれが極めて目立ってしょうがない
大阪の北部のホタルの名所でも鑑賞ではなくそれを生捕る老害まで出没しているという
情緒を失った日本人
五感を楽しむ余裕まで喪失してしまったのだろうか
いやそうに違いない

「かえる兄弟」には「僕」という人間とかえる兄弟のみが登場する
そこでの他愛もない会話
人間とかえるが会話する
それを完全なる言葉のやり取りと解釈するとかなりややこしい
五感を使ってのやり取り
それはかえる以外にもお犬やお猫とも可能だろう
情緒とはそういうものだと僕は思う

僕は色々な動物と会話をする
少なくとも僕にはちゃんと情緒がある
だから老害へとマイナス成長することはない
自然は人間の持つ情緒を上手に引き出してくれる導き手でもある
だから素晴らしいのだ
2017-04-17 08:44:07[407]


ゴーギャン

名古屋にゴーギャンを観に出かけた
意外にも兵庫には来ない
もちろん大阪に来るはずもない
ならば尾張へ向かうべし
意志決定は極めて簡明だ

ゴーギャンについては湯原かの子さんによる立派な評伝がある
『ゴーギャン』講談社選書メチエ
因みに湯原さんによる藤田嗣治についての評伝もかなり良い

ゴーギャンといえば先ずはタヒチを思い浮かべる
これまでに接した作品の中でタヒチを舞台にしたものへの魅了度はまた格別だ
そこにはゴーギャン自身が描かれている
ゴーギャンの魂がそこに厳然と存在し…
描くことを通して自らを洞察した証を伺い知ることができる
奔放と評されることが多いゴーギャン
勿論それは事実に違いない
ただ一方で自己放棄には決して至らない
自分を凝視するその力は奔放などではなかった
実は真面目で繊細かつ鋭さは失わない
嫉妬を覚える程の力強さが作品の隅々に流れている

絵画は物語る
作品自体に言葉は写らなくても耳を澄ませばそれは聞こえる
作品を通してゴーギャンと語る
その時普段の言葉は瞬く間に宝石と化する
何と贅沢なことだろう
「儲かってまっか」
「ぼちぼちですわ」
そんな愚鈍で腹黒な台詞とはやっぱり比べようもない
2017-04-03 10:59:04[406]