かい人21面相と聞いてそこで一般の人たちは何を彷彿するだろうか
一部は江戸川乱歩の推理小説か
また一部は妖怪や幽霊の名前か
そこまではまだいい
昭和59年を普通に生きていた人なら必ずある事件を思い出す
それは「グリコ?森永事件」だ
かい人21面相はそこに登場した社会に対する知能的挑戦者だった…
僕はここで事件の概要を説明したい訳ではない
また警察の初動捜査を非難したい訳でもない
むしろ自らの組織のトップを銃撃される失態を犯した警察に大きな期待を抱く方がどうかしている
僕があの事件に衝撃を覚えるのは犯人の乱暴かつ緻密かつ綿密さだ
乱暴な犯罪者はどこにでもいる
実は誰でもよかったとほざくエセ異常者も必ず相手を選んでいる
自分より弱いもの
自分より小さいもの
暴力団関係者への襲撃は行わない
乱暴な犯罪者もまた稚拙で脆弱な知性で生きている
しかしかい人21面相はエセとは違う
社会というとてつもない魔物のような組織に対して果敢に戦いを挑んだ
乱暴のように見えてその計画性はまさに極めて知的だといえる
いや乱暴さもまたひとつのカモフラージュだったのかもしれない
そうなるとあのキツネ目の男の存在もカモフラージュのひとつに過
ぎなかったのか…
僕はかい人21面相とキツネ目の男は別の存在だと思われてならない
かい人21面相がそうやすやすと素顔をさらすだろうか
犯人が複数人だったという説もある
しかし裏切りやチクリを好む日本人独特の集団的寄合的性質にはそれは当てはまらない
むしろ複数人の場合はそこは徹底したタテ組織だろう
知性ある者は個に徹し孤に徹する
そこに十分な思索の時間を加えることで緻密さと綿密さはさらに研ぎ澄まされていく
単独であれ複数であれ犯人はカリスマ性をも備える人物に違いない
捜査側の問題にも触れておこう
犯人を複数に見立てたのはなぜか
個人を見縊り過ぎたのではないか
個人の力を脆弱とするのは間違いだ
現に警察組織もまた強大で盤石では決してなかった
固定的観念や概念やあらゆる欲が入り込んだ瞬間から組織は個人以上に脆弱化していく
そしてマンネリへ
結局事件は時効を迎えたのだった
かい人21面相がまだどこかで生きているなら次のことを考えるか
そうなれは犯人はただのそこいらの愉快犯に過ぎない
そして同時にその知性もまた完全に吹っ飛んでしまう
警察を翻弄したあのかい人21面相
しかしあれ程上手く翻弄された例もまた珍し過ぎる…
警察はかい人21面相を知っていた
…
そしてかい人21面相もまた警察を知っていたとすれば
これはあくまでも僕の身勝手な推理に過ぎないのだが
その意味で…
やっぱり僕は犯人の知性にはまだまだ及んでないのかもしれない |