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甲山羊二オフィシャルブログ
Writing by 甲山羊二
 オフィシャルページモバイルにある奥の部屋で、コラムでもなく、エッセイでもなく、もちろん小説でもない、ただのつぶやきをほんの少しだけ形にしようとする。
 僕がつぶやくことで僕自身が導かれ癒され納得する。
 それもいい。
 さすが典型的B型人間甲山羊二だ。
 だからいい。やはりいい。


■オフィシャルページモバイル


『むらまつり』
新作掌編小説『むらまつり』が「全作家機関誌108号−掌編小説特集−」に掲載された
ある村に残る古くからの因習をテーマにしたものだ…
実はこの作品で僕はひとつのチャレンジを試みることにした
それは自らの創作による手毬唄をそのまま引用するというものだ…
もちろんその内容も因習に基づくものである

手毬唄と呼ばれるものは大体の地域に今なお存在する
横溝正史の小説に『悪魔の手毬唄
』という名作がある
そこではある手毬唄が事件解決のきっかけになる唄として実に巧妙に引用されている
僕の場合はそれを完全に倣った訳ではない
ただし村の因習を語るひとつの方法として取り入れるきっかけになったことだけは間違いない

因習はどこにでもある…
それは地域における世間と直結している…
因習は人間を取り込むものであると同時に排除するものでもある
世間もまた同じだ

僕たちは社会と繋がりながら世間とも繋がっている
たとえそれが薄情で偏狭で歪んだ社会であってもまた薄気味悪い世
間であったとしても…

薄情で偏狭でしかも歪んでいて更に薄気味悪いのは何も社会や世間だけではない…
社会と世間を根底から下支えしている人間がその最先端にいる
つまりは因習など人間によって生み出され継承されていくのだ

因習は都会にもある
因習はすぐ隣にある
因習は人間そのもの
因習とは所詮はそういうものなのだ
2018-01-09 00:07:12[424]


松阪と本居宣長
松阪に本居宣長を訪ねた
契沖、賀茂馬渕、そして本居宣長…
その精神は後に平田篤胤へと受け継がれていった
かつて小林秀雄の名著「本居宣長
」を読んでその難解さに随分頭を悩ませた覚えがある…
それは本居宣長の難解さではない
小林秀雄の洞察の鋭さにひたすら僕自身がついていけなかった…
だから僕は僕なりに僕のやり方で本居宣長に近付き、再びあの小林秀雄の名著「本居宣長」に触れる必要があったのだ

本居宣長
精緻な筆
強靭な精神力
確かな目
そこにはいい加減さは微塵もない
記念館の展示は本居宣長の人となりを全て表している
加えて忍耐
忍耐こそがあらゆる仕事に共通する普遍の事項
小林秀雄の名著に慄いている訳にはやはりいかない

松阪は実に静かな町だった
その静けさのなかで本居宣長は学問に打ち込んだ
何ものにも汚されない学問という領域
金欲しさに手段を選ばない
そんな現代の御用学者など本居宣長の足元にも及ばない
だからこそ息子の春庭をはじめ優れた弟子にも恵まれたのだろう

驕らず
驕らせず
環境が人を育てる
当たり前のことが松阪には今もなお備わっている
そう思った
2017-12-18 07:14:08[423]


軍艦島
今般、軍艦島に初めて上陸をした
上陸というとかなり大袈裟に聞こえるかもしれない
もちろんそれでも構わない
なぜなら僕にとって物理的時間や距離などを含め、そこは頻繁にそして簡単に辿り着ける場所などではないからだ

軍艦島は正式には端島と呼ばれる
そこには資源とともに人々の日々の生活があった…
そして離島へ
時間は残酷だ
一方でまた一縷の光りを備える
軍艦島が脚光を浴びるようになった理由は様々だ
もちろん物見遊山を否定するものではない
けれどもノスタルジックな魅力だけでも決してない
二度と取り戻せないかつての自分を朽ち果てようとする島の風景に重ねてみる…
その意味では島はまさに自分の人生…
そうした情動の世界に必然として引き込まれていくからだろう

人もいつか必ず朽ち果てる
端島もまたその例外ではない
ただし記憶は紡がれる
記憶の連携
その力は凄い

軍艦島上陸…
その詳細はまた別の機会に譲りたい
ただ今はもう少し情動の只中に僕はいたい
そこに浸かっていたい
そんな気持ちでいる
2017-12-04 09:44:27[422]


憂国忌

11月25日
その日は憂国忌にあたる
憂国忌とは…
三島由紀夫並びに森田必勝が自刃した日だ
両者はまさに昭和の武士他ならぬ

2年前のこと
三島由紀夫研究会会員として乃木神社での慰霊祭に初めて参加した
勿論全てが神道形式
祭壇の三島由紀夫並びに森田必勝の遺影に僕は思わず身震いがした
まるで目の前に両者がいるかのように
そして何かを訴えているかの如く

三島は文学者でありれっきとした思想家でもあった
そして行動家でもあった
口先だけの柔な人間にはその行動の神髄など想像にも及ばないだろう

文学者は思想家でなければならない
その思想をあからさまにするのか否かは個人の思惑による
行動も然り
僕は今のところ行動家ではない
これから先も多分変わらない
但し思想家であることには違いない
それを汲み取るのは読者の仕事
思想も信条もない
そんな人間に文学はできない
一方で書き手のそれを類推もできない
それはもはや読者などではない

憂国忌は僕にとって特別な日だ
「お前たち、何やってんだ!」
そんな三島と森田の叫びが聞こえる
それを身体全体で受け止める
いや、そうしようと努める
歯がゆいが今の僕には全くもってそれしかできないのだ
2017-11-20 08:22:32[421]


ベトナム戦争
『サイゴンのいちばん長い日』
(文春文庫)近藤紘一著

ここ数ヶ月でおびただしい数のベトナム戦争に係る書籍を読んだ
その理由についてはここでは伏せておきたいと思う…
少なくとも再来年の夏にはそれが判明するはずだから

ベトナム戦争をどう捉えるのか…
当然それは人それぞれに異なる
僕が考える最も厄介な捉え方は善玉と悪玉に分けて、かつ善玉の主観に立って捉えようとするやり方だ
北の側に立つか
それとも南の側に立つか
いやアメリカの側から捉えるか
はたまたベトコンの側か
時代はそして歴史は単純に動いてはいないし働いてもいない…
当たり前のことだがその当たり前に翻弄されるのも、これもまた脳という得体のしれないメカニズムの仕業に違いない

本書はそうした脳のメカニズムを整然としたものにさせてくれる名著だと僕は思う
少なくともベトナム戦争という極めて混沌としたかつ複雑な歴史的事実については…
1975年4月30日サイゴン陥落の前後を克明に記録
ひとりの人間の生の視線と視点が溢れる迫真のルポルタージュだ
因みに文庫本は1985年刊だが単行本は1975年10月刊
つまりサイゴン陥落の約半年後ということになる…

ベトナム戦争を考えることは実は
アメリカを考えることでもある
そしてアメリカを考えることは日
本を考えることでもある
考えることを止めてはいけない
それはまさに自己放棄だ
ゲームにうつつを抜かしているようではいけないのだ
2017-11-06 12:52:06[420]


「シカシダ君のこ
全作家短編小説集最新巻に収録された「シカシダ君のこと」についての批評が協会から送付されてきた
会員が収録作品を読んで批評する

それが段割りされ一覧として記載されているものだ

因みに僕は他人の作品について批評は一切しない…
取り上げて紹介することはあって
もそれに留める…
そしてまた他人からの批評に応戦することもしない
作品はあくまで個々の嗜好品だ
それにそれに触れたその時の精神状態にも関係する
だからひとり静かにただただ作品とだけに向き合う
それが書き手に対する礼儀だと僕はわきまえている

「シカシダ君のこと」に対しては実に数多くの批評が寄せられた
それらに対してはそれぞれにやはり嗜好が異なるという当たり前のことを当たり前の認識により目を通すことができた

そりゃそうだろう…
全てが同じような書き方の小説はやっぱりつまらない
そんなもの誰も読んでなどくれない
それ以前に手に取ることさえしない
そこは料理と同じだ

嗜好に合わないのならどうぞ他の作家様の作品をお読みください
ただしこちらはこちらで創意工夫は決して怠らない
そして新しいものをさらに積極的に取り入れていく
甲山は本家甲山流を止めることなどできないのだ
2017-10-16 07:14:04[419]


神話を辿る旅
今年…
春に熱田神宮
そして夏には久しぶりに伊勢神宮に参拝をした
いずれも神話を辿るという特別なモチーフによるものだ

古事記に日本書紀…
ここには壮大なロマンが秘められている
しかし未だ完全理解には至らない
それが残念で悔しくてたまらない

神話など所詮は虚構だと蔑む人がいる
ではと居直れば…
人間の日々の生活などほとんどが虚構ではないのか
本音で生きる人間を見つけることこそが至難の業だ
虚構にこそロマンがある
いやむしろ記紀の虚構性を一体誰がどこで明確に実証したというのか
ゴミのようなくだらない戯言など言わない方がよい
お花畑は頭の中だけで十分でございます

どこの国にも神話がある
どこの国にもロマンがあってよい

ロマンをロマンと感じ得ないのなら人生を捨てたようなもの同然だ


神話を辿る旅は続く
ロマンが果てしなく永遠に続いていくように
2017-10-02 00:44:15[418]