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甲山羊二オフィシャルブログ
Writing by 甲山羊二
 オフィシャルページにある奥の部屋で、コラムでもなく、エッセイでもなく、もちろん小説でもない、ただのつぶやきをほんの少しだけ形にしようとする。
 僕がつぶやくことで僕自身が導かれ癒され納得する。
 それもいい。
 さすが典型的B型人間甲山羊二だ。
 だからいい。やはりいい。


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乃木希典
乃木希典は僕が敬愛して止まない人物のひとりだ…
彼を語るのに殉死は欠かせない
ではなぜ殉死するに至ったのか
その過程にこそ彼の魅力が満載していると考える…

西南戦争で軍旗を薩摩軍に奪取されるという軍人としての大失態
これは乃木希典にとって人生の咎
となった事件だ…
同時にそれは乃木希典を乃木希典足り得る人物へと仕立てるべき事件でもあったのだ

人生にはそれぞれ必ず転機がある

それを自らに引き寄せ糧とするか
、或いは簡単に放逐してしまうか
、転機はその後の生き方を変える

そしてまた人格をも変えてしまう

乃木希典にとって失態は糧となり
責任となって自らを戒めとした
そして殉死はその帰着点であった

僕は中央乃木会の会員でもある
港区にある乃木神社にも参拝した

もちろん恐れ多くも乃木希典の精神を受け継ぐといった気持ちは僕には微塵もない…
僕が惹かれるのは責任を全うするという生き方だ…
責任から逃れる…
そうした弱さを戒める意味においても乃木希典への敬愛は十分に意義深いと考える

最近は責任という言葉が余りに宙に浮き過ぎなのではないだろうか

政治家も官僚も経営者も誰も彼も簡単に責任という言葉を発する
但し腹を切る覚悟など実際はこれっぽっちもない
覚悟がないのなら口から出まかせに責任などとほざく必要はない
その分だけいやそれ以上に人間としての付加価値が下がってしまう
というよりもそういう人間には元
価値などはないのかもしれない

司馬遼太郎は乃木希典を嫌った
人物評価は嗜好と同等なのだからそれもあり得る
それはそうだ…
司馬史観に乃木希典の精神はやはり相容れない
それは百も承知
だから乃木希典を知る為の一冊に敢えて司馬遼太郎の『殉死』は挙げないでおこう

『乃木希典』
松下芳男
吉川弘文館

こちらを挙げる
2021-10-04 07:00:29[509]


ロシア文学
ここ最近のこと…
ロシア文学を読み漁っている…

その直接の契機となったのは実はサガレンにある
サガレンとは樺太のことを指す…

先ずは宮沢賢治からサガレンへ
そしてサガレンからロシア文学へ

文学は読書はある意味旅でもある

文学作品を通してロシアの歴史をゆっくり旅する…
読書とは何と優雅なものだろう

まずゴーリキーは岩波文庫による短篇集を読んだ…
ゴーリキーといえばサハリン紀行『サハリン島』がよく知られる
短篇集にも同類の作品が収録されていて興味深い…
日本人が旅する場としては稀有な所である樺太…
不思議な郷愁を抱いてしまうのもゴーリキーの筆の良さであろう

トルストイの文体にも惹かれた
『復活』は描写が緻密過ぎて億劫するところが無い訳ではない…
視点人物がその都度入れ替わる
その巧みさもある意味特徴的だ
当時のロシア人の気質や習慣についての細かい記述も興味深い…
ここでの専制的警察国家ロシアについての描写は、ソルジェニーツィンによる作品『イワン?デニーソブィチの1日』や『収容所群島』へと繋がっていく…
ロシアの現実を批判したトルストイとソビエトを徹底暴露したソルジェニーツィン…
ロシアとソビエトの国家の体制の闇が見えてくる…

ツルゲーネフの『父と子』もまた1840年当時のロシアの風土が巧みに描写されている
現実主義と理想主義の徹底的対峙

理想とは現実の悲惨的かつ悲観的状況から生み出されるものだ…
理想主義を夢想家として取り扱う一方でそこに新たな希望を見出さざるを得ない実情
ロシアの歴史の一端に触れる…
ツルゲーネフに限らず文学の果たす役割とその功績は実に偉大だ

日本を出発する…
ロシアを旅する…
旅は実に壮大だ
何を今更と言われる御方も多分居られるに違いない
読書で旅をする…
時にこういう情緒があってもいい
2021-09-20 01:06:57[508]


須賀敦子観
須賀敦子のことはここでも何度も書いたことがある
河出書房刊の全集も手元に揃えた

大竹昭子氏の著作
松山巌氏の著作…
その他須賀敦子に関わるものは全て網羅し読破した
それでもその世界は余りに深遠過ぎて終わりがない

須賀敦子に最も惹かれるのはその類まれな文学性だ
そしてその背後に構える信仰についての捉え方になる

抽象的な神への崇敬ではなくそれを現実にどのように活かすべきか

活かすことは信仰を基とした具体的な活動に繋がる
それは時に慈善事業でもあり自らの文学を実践することでもある

そもそも盤石な信仰生活など本当にあるのだろうか
僕はないと思う…
信仰とは元々が脆弱故に育まれていくものではないか
須賀敦子はそうした自己分析を徹底的に行った人物だったと思う

須賀敦子を何度も読み直してみる

イタリアから日本
日本からイタリア
見方によればそれらは不完全で消化不良な旅路のようにも思える
しかし完全無欠な人生などない
そして完全無欠な信仰もまたない

ないからこそ求道を怠らない…
では求道とは何か
須賀敦子を読むことの意義はそれを知ることにある
2021-08-30 00:29:05[507]


フォト?ドキュメンタリー
『朝鮮に渡った「日本人妻」』
林典子
岩波書店

少々意図があって…
初めて自分専用のカメラを持った

「Canon EOS RP」
その意図に人の撮影は含まれない

それ故に逆にフォト?ドキュメンタリーという表題に強く惹かれた

北朝鮮を撮影する…
しかもそこにいる日本人妻を撮る

何故にかと思うのは当然だろう

プロカメラマンの画は素晴らしい

先ずは目的が明確だ
そこに文章が加わる
いや文字が添えられるといった方が適切かもしれない
画と文字が無理なくマッチする
北朝鮮の風景と情景
日本人妻の瞳と視線
政治色は自然と排されて人間が豊かに鮮やかに浮かぶ

本書を手にした理由は他にもある

北朝鮮への帰国事業
本書への期待はそれらについての参考文献を知ることにもあった
1983年生まれの若い著者が帰国事業を知る上で何を依拠したのか
ドキュメンタリーは借り物のフィクションではない…
あってはいけない…

僕がカメラを持つに至った経緯…
これは今は割愛することにする
兎にも角にもだ…
宝の持ち腐れになってはいけない

などと自分に言い聞かせている
2021-08-16 12:16:06[506]


宮沢賢治
『宮沢賢治の真実』
今野勉
新潮文庫

宮沢賢治の世界に陶酔する人多い

それは文学なのか
それとも思想か…
はたまた両方か…
賢治の世界を知らない僕には殆ど見当はつかない…

本書は賢治の世界を静かに暴く…
修羅の恋はその最初の扉だろう
そして国柱会入会
思想の形成は具体的になっていく

加えて妹とし子の恋とその病…
さらにはその死…
それらもまた賢治の世界に少なからず影響を与えた

これらの事象は決して陶酔者ではない初心者の僕にも興味を強く唆られるところだ…

賢治の世界を伺う別の書籍がある

『サガレン』
梯久美子
角川書店

樺太を南北に鉄道により旅する…
賢治とロシアを結ぶ線を垣間見る

チェーホフという存在もまたそのひとつになり得る
本書はその点を紀行的に追って丁寧に読み手を導く

そこでやはりチェーホフを読みたくなるというのは読書の広がりとしては良いことだ
『六号病棟』や『退屈な話』等…
ひとつの世界が新たな別の世界へ
と繋がって行く…

実は繋がりはこれに留まらない
『サガレン』はまた林芙美子にもしっかり繋がる…
しかもまたチェーホフは村上春樹にも繋がっている
何と愉快で不思議なことだろう…
だから読書は止められないのだ…
2021-08-02 00:44:46[505]


憑き物と祟り
『民間信仰』
桜井徳太郎
ちくま学術文庫

信仰を取り上げるのは難しい…
それを論じるのは地道な調査と裏付けが必要となる
それも民間信仰となれば一挙に論じる幅が広がる…
ただ一方的に面白可笑しく取り上げるのではない…
本書は柳田国男の民俗学の流れを汲む著者が著した
だから綿密さと緻密さに加えて読み手を惹き付ける文書力を感じる

憑き物と祟り…
それを迷信と片付けるのは簡単だ

簡単でないのは人々の暮らしと風土を言説と形態に繋ぐ作業だろう

暮らしのないところに憑き物はない
風土のないところに祟りもない
ましてや風土を無視しては暮らしなど成り立たない

学術研究書としては十分資料となり得るのが本書だ
それを僕がどう活かしていくのか

課題は当然ある
2021-07-19 10:14:20[504]


宗教弾圧
少々訳があって…
大本弾圧について書籍を集めた
同時に大本の教祖についても同じく書籍をあたった
ここではその詳細については控えることにしたい…
もちろん理由も敢えて書かない

宗教をモチーフにした小説で是非とも読んでみたかったものがある

『邪宗門』
高橋和巳
河出文庫

この作品は大本弾圧を下地にしたものとされている
また作品自体の文学的評価もかなり高いものがある
いずれにしても宗教という極めてナイーブな問題を取り上げている

「触らぬ神に祟りなし」ではない
人はその神が真なるものであれ、偽なるものであれ、それに惹きつけられてしまうという習性を持つ

人の生き方もその人生も実は極めて虚無的なるもの
そうした心理を重層的にしかもダイナミックに本書は描写している

著者の筆致も光る
名作は人を唸らせ思索を与える

例えばの話をする
同じ宗教問題を松本清張ならばどう書いたのだろう
清張は大本弾圧に関する資料を多く収集したと聞く
ここはもはや興味の域を出ない
清張もまたダイナミックにそれを描いたに違いない

大本並びにその弾圧についてのお勧め文献は以下…

『出口なお』
安丸良夫
朝日選書

『大本襲撃』
早瀬圭一
新潮文庫

『大本教祖伝』
伊藤栄蔵
天声社
2021-07-05 09:59:24[503]


ドストエフスキー
ドストエフスキーを腰を据えて読む時間をつくる…
などと言うと次のようなお叱りを受けることになる
「そうした時間などは幾らでもつくれるはずだろう」
そうした叱責に対して抗う言葉を僕は持っていない
そして何故ドストエフスキーを遠ざけていたのか…
それについても未だまともな抗弁
ができないでいる

ドストエフスキーについては小林秀雄の名著がある

『ドストエフスキイの生活』
新潮文庫

ドストエフスキーは作家でありかつ思想家でもある
小説のなかにある字面を追うことはできても彼の思想に何処まで迫ることができるか
僕の言い訳は実のところ根本的にはそこに所以する

読むという行為は思慮を深めること他ならないというのが僕自身の確固たる持論だ…
ドストエフスキーが思想家でもあるならばそこを無視して読むことなど許されない…
腰を据えてその作品を読むという機会を虎視眈々と狙っていたのは実はそれが理由だ

ドストエフスキーに一歩近づく…
遅ればせながら…
そこに何を求め何を受けるのかを楽しみにしながら
2021-06-21 10:51:50[502]


人間と文明
『極北』
マーセル?セロー
村上春樹訳
中公文庫

セローの作品を初めて手に取った

経歴と同じく小説もまたインテリジェンスな香りは確かに伺える
しかし押し付けがましさを控えた筆致にはむしろ親近感さえ覚える


本著は四部構成からなる長編だ
「私」と「ピング」のふたりの偶然の接触からその話は幕を明ける

そして初期段階でふたりの事実が読者に明かされる
驚愕は活字の追い方をリズミカルなものに変える…
そうして本著の持つ世界観へと引き込まれていく…

人間とその人間が創り上げた高度な文明との対峙…
人間が対峙せざるを得ないもの
それはまず自然だ
自然の摂理には人間は逆らえない

しかしまた一方で自然は人間に脅威を与えながらもそれを究極の祈りへ導く力を持つ

だがしかし文明はそうはいかない

それは時に人間を徹底的に滅亡に追いやろうとする悪魔に変貌する

人間による創造が人間に刃を向く

人間自らの破壊
残るのは果てしない絶望だけだ
そうした思慮を読者に導くところもセローの実に巧妙なところだ

長編を読み進めるにはそれ相応にパワーが必要だ…
それを下支えするのが訳者の持つ力だと僕は思う…
その意味では十分な読み応えと満足感を得られる…
セローの世界観
その心地良さは思慮へと繋がる…
そうした流れに委ねるのもいい
2021-06-07 00:00:05[501]


詩人リルケ
『マルテの手記』
リルケ
新潮文庫

初めにきちんと断わっておきたい

僕は韻文に弱い…
嫌いではないが苦手な領域であることは間違いない
だから<詩人リルケ>を語るだけの資格を持たない…

詩人が小説を書くとどうなるのか

島崎藤村の詩と小説をふと思う
詩人としての藤村
小説家としての彼
その乖離は歴然だ
ではリルケの場合はどうだろうか

文体はどうなのか
描写はどうなのか
尤も本書の構成は極めて特殊だ…
あらゆるジャンルを取り入れてそ
れをまとめている
日記に随筆に当然の如く詩もある

あらゆる顔と顔…
興味をそそられるのは仕方ない
しかしリルケは藤村とは異なる…
リルケは藤村よりも更に多彩だ…
僕の興味は裏切られることはない


本書には人間が醸す暗部が随所に立ち込めている…
もちろん絶望は究極に他ならない

但しそれは終局面では決してない

絶望が人間を支えることもある…
本書はその意味で希望の書とも言えるのではないか

絶望そして希望…
対局にあるふたつを巧く盛り込む

しかも絶望のなかにある希望を詩的に描写していく
むしろ訴えていく
もう間違いない…
リルケは正真正銘の詩人だった
ただ自分勝手に僕はそう思うのだ
2021-05-17 10:37:35[500]