MyBlog Ver1.40



甲山羊二オフィシャルブログ
Writing by 甲山羊二
 オフィシャルページにある奥の部屋で、コラムでもなく、エッセイでもなく、もちろん小説でもない、ただのつぶやきをほんの少しだけ形にしようとする。
 僕がつぶやくことで僕自身が導かれ癒され納得する。
 それもいい。
 さすが典型的B型人間甲山羊二だ。
 だからいい。やはりいい。


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晩秋によせて
今年もまた一年間を振り返る時期となった

とはいえ年の瀬師走には少々早いようだ
そこでここでは振り返り予習として記憶脆弱の折により記録として記しておきたい

今年も例に漏れず色々なことに出会した
最も印象的だったことは組織の有り方だ
当該組織が優良か否かは危機対応への取り組みに如実に現れる
その意味では日本は優良組織には程遠い

何でもかんでも武漢肺炎のせいにしては周囲を丸め込もうとする組織にも遭遇した
当方が所属する或る会などはその典型だ
お蔭をもってつい最近も凡ミスの煽りを食うことで実に不愉快な結果をこうむった

組織の危機管理は危機対応に直接関係する

危機に耐えられないということは忌憚なくいうならばもはやそれは終末期なのである

もちろんこれらのことは組織には限らない

個人であればそれはまさに死を意味する
国家であれば崩壊と離散に直結する訳だ

兎にも角にもである
相手が組織であれ個人であれこちら側の対応に然程の差はない
迷惑千万な連中らとは厳然と距離を置く
そうして健康で文化的な生活を自らの手で守り抜くことである

確か昨年の今頃も同じことを考えていた
この国で生きることについてなど所詮はその程度に過ぎない…
2022-11-07 07:44:34[535]


アントニオ猪木
我らがヒーローアントニオ猪木が亡くなった
我らが猪木はまさしく昭和のヒーローだった
毎週金曜日の夜8時…
ヒーローの登場に胸をワクワクさせたものだ

ヒーローがプロレス界の最前線から退いても
政治家としての華々しい活躍が伝えられても
我が猪木はずっとずっとレスラーだった…

強い者故のヒーローか
勝利者故にヒーローか
そうではない
断じて違う…

強さのなかに自然と滲み出る男の優しさ…
敗れ去る者達への憐れみに満ちた眼差し…

勝者は無闇に語らない
敗者も理屈を並べない
威張らない…
また屈しない

アントニオ猪木こそ国葬を行なうに値する

策略に満ちた酷葬など全くもって不必要だ


不死身といわれた猪木も普通に人間だった

もちろん不死身な人間などこの世にいない

いないからこそいつまでも語り継がれる
ヒーローは肉体は滅んでもなお生き続ける

皆の心はアントニオ猪木をずっと忘れない
2022-10-17 08:44:29[534]


かみんぐあうと
直近のフリマガVol.4
最初の随筆「かみんぐあうと」の反響が予想以上だったことについて付記しておこう

先ずは「かみんぐあうと」は正真正銘生の随筆であるということ
小説を書く人間は随筆まで所謂創作と思われる困った傾向がある
しかし「かみんぐあうと」は隅から隅まで全て本物の実話による
(少なくとも僕は評論と随筆に所謂創作を含ませたりはしない)

次に何故にこれまでカミングアウトをせずにいたのかということ
この真相については至極親しい人達のみに限って打ち明けていた
大体がペラペラと周囲に話せるような内容のものでは決してない

そうしてまた何故に今に至ってカミングアウトなのかということ
それを語るとおよそ一個の随筆となるのでやめておきたいと思う
物事には全て契機というものが判然とふくまれているのだと思う
それについてはまたいずれか何らかの形で
カミングアウトしたい

以上取り急ぎ「かみんぐあうと」をカミングアウトしておこう
2022-10-03 06:59:35[533]


フリマガVol.4
「フリマガVol.4」が間もなく発売される…
毎年一刷づつの発行…
今年は秋版と相成った
随筆2編に小説2編…
中でも随筆「かみんぐあうと」は意味深な内容となっている…

フリマガは然りだがひとつのものを拵えるのは自分ひとりの力に依るものではない
ものを作るというのは技はもちろんのことあらゆる思いがそこに充満している訳だ

ある自称アーティストが自分が作成したCDを烏避けにと他人にばら撒いたという
もはやアーティストではなく自称でもなく間違いなく狂人であってもはや人でない

フリマガはもの作りの原点に位置している
毎年原点に立ち返る…
達成感はもちろんある
嬉しさや喜びもある…
それ以上に充満するのは関わる人達への感謝の気持ちである…
烏避けは結局人避けだ
それは況や自分避けだ
そんな人間の歌に耳を傾ける価値などない
2022-09-19 11:29:40[532]


人の本質とは
同じフロアのテナントが引っ越しされた
特に親しかったという訳ではもちろんない

ご挨拶程度以下といえばはっきりする…
兎にも角にもその手際の悪さはサイテーでかつサイコーだった

皆が同じところで同じ作業を一緒にやる
スマホを弄くりながら非計画的に動いていく
共有ゴミ箱に何でもかんでも詰め込む…
挙げ句の果てには玄関のロックはご解除のままでお去りになる

まるで片付けのできないくそガキのようなお引越しでなかなか見事なもので御座候

引っ越しは個人ならばその人格が晒される

組織ならばその品格が露わにされていく

業者についても然り
品質の良し悪しは手に取るように分かる

お引越しとは如何に
立つ鳥跡を濁さず
いやいや言い換える
立つ人跡を片付けろ!
2022-09-05 08:15:11[531]


チョモランマ的プライド
今春に話題が戻る…

ある雑誌の編集担当とやり取りがあった
最終的には当方の過去作を添付送付した

到着したのか否か(田舎)

一週間後批評を含めた文書を受信した…
批評するのは勿論勝手千万常に放任する

ここでは根幹を書く

繰り返すが批評等はお好きにやればよい
但し自らの勉強不足と狂人と知識不足を晒すような批評はお辞めになった方がよい
だから何時まで経っても黴を蔓延させるような反吐臭い小説しか書けないのである
幻想とSFを区別できない愚かさを知れ

更に話題を遡ろう…

当方の作品を読むに値しない包装紙程度のものであると批評された御方がおられた
実に愉快な批評で皆で爆笑してしまった
読むに値しないという作品を読んでいて、ご丁寧に乱文珍文までご披露されている
ふと蝦夷征伐を頭に思い浮かべた次第だ

批評も色々である…

やるなら先ず自身の文書能力を高め給え
そうして双方に建設的な批評をやり給え

妬みと嫉みは不要だ

自らの呑百姓根性なども早々に捨て給え
無理なら良い医者と良い病院を探し給え

輩はプライドだけはチョモランマである

こう書きながら僕はここで少し自戒する
一体全体自戒とは…
相手に「給え」とは
尊敬の補助動詞とは
もはや取り消せない
2022-08-22 09:15:04[530]


続々短歌について
冷泉家は由緒正しき定家の筋を今に伝える


『冷泉家の花貝合わせ』

ここにあるのは見事な図柄と文脈である

和歌と花貝合わせは分かつものではない
四季にある情趣を詠む
それを視覚で味わう…
単なる知識や浅薄な知恵では詠むことも味わうことも決してない
遊びは戯れとは異なる

中世の勅撰集は春と秋に巻の数を重ねる
春をじっと忍んで待つ
夏の盛と秋の夕を思う
一体全体待つこととは内なる心を働かせることではないだろうか
怠惰とは一線を画す…

短歌と和歌は同一の三十一文字観ではない


にも関わらずである…

短歌は和歌の世界を存分に誘ってくれる

待ち方も思い方も心の働かせ方についてもその間口を閉ざすようなことは決してない

時を隔てつつも短歌は和歌にある優美さと平淡さにどこかで通じているのだと思う
2022-08-08 00:44:42[529]


続短歌について
前回の続編を書く…

短歌をやり始めて良かったなと思うこと…

先ずはものの見方が変わったことである

自身の情緒性に頼む
自らの感性を顧みる
高慢と偏見はすべからく排除されていく

次に四季に係る汎ゆる事物への捉え方が変わったことである…

ここには一瞬がある
逃せばもう逢わない
短歌にはれっきとした普遍性は全くない

「未来」にて選者としてお世話になっている道浦母都子さんの歌を拝見すると嫌がおうにもそう感じる…

僕はどこへ行くのか
どこだって良いのだ
とつくづくそう思う
2022-07-18 07:45:58[528]


短歌について
春から短歌を始めた
和歌でなくここはあくまでも短歌である

では和歌と短歌の違いはどこにあるのか
それについては藤原定家或いは俵万智氏のいずれかにお聞きなるがよろしいでしょう

今般短歌を始めたきっかけは西行にある
ではなぜまた西行か

これについてはいずれどこかに書くことになるものと予測する

「覇王樹」と「未来」
両会に入れて頂いた

短歌の世界は深い…
三十一文字の世界には言霊が潜んでいる

では言霊とはいかなるものであるのか…
このことについては遠慮なく本居宣長または賀茂真淵か平田篤胤にお尋ねくだされ

兎にも角にも短歌は極めて人間に優しい
いや全てに優雅なのだ

では優雅とは一体全体どのようなものか
宮廷歌人達に尋ねるか

追記として
当該記事は暫く続く…

次回に続く
2022-07-04 01:01:01[527]


似非カウンセラー
カウンセリング…
その言葉に万能さを覚える御方々には一度脳神経外科へ直行することをお奨めする
画像にはこの世のものとは思えないくらいの華美なお花畑が映っているに違いない

兎にも角にもだ…
カウンセリングとは単に傾聴でしかない
そこには万能さなど欠片も存在しない…

だがだがしかし…
実はその傾聴とやらが肝心要の作為であって自らの体験と高度な技術を要求される

傾聴とはただひたすら聞くことではない…
自らの内側に緻密な創造をすることである

また傾聴を通して共感することでもない…
時空において認識を共有をすることである


普遍的な学問と技術を自らの体験を通してのクライエントに合ったオリジナルな傾聴

カウンセリングは学問も体験も持ち合わせない甘野郎が関われるような領域ではない

例えばの話だ…
学校などで若い女教師がカウンセラーと称して正々堂々と偽カウンセリングを行う
挨拶ひとつできない似非教師かつ似非カウンセラーの偽善などまるで悲劇であろう

加えて言おう…
自ら命を絶つことを決めた人間に対してカウンセリングは何ら効果も効力もない…

更に加えよう…
自殺の決心を遂行して死に至った経験者がカウンセラーになることなとはできない

非体験者が体験者の顔をするのは結局似非でしかないのである
2022-06-20 09:14:09[526]