かりや
 その夜、俺は狩屋を料亭に誘った。ノンキャリアへのこうした直接の働きかけは初めてのことだった。うだつの全く上がらない男。
彼はその象徴のような人間だった。俺は早速彼にこう切り出した。「今般の責任を取るように次官から言われた。狩屋君、この件については、是非とも黙って引き受けてくれたまえ。とにかく、これは次官からの絶対至上命令なのだ」
 狩屋は驚いた様子で顔を上げた。
「私はあくまでも二課の人間です」
「あれは、もはや我が省全体に関わる重大なことなのだ。だからこそ、この際は、世間に対して明確に示しを付ける必要があるのだ」
「次官補、それでもやはり、私はそのご命令に納得ができません」
 狩屋はそう言って食い下がった。
「なあ、狩屋君。これ以上の出世はもう望めない。それにだ。住宅ローンの返済だって相当重いはずだ。これから先、子供の教育費もかさんでくる。奥さんはやむなくパート勤めに出る。しかも、夫婦仲は決して良くない。子供だって、既にほとんど口も聞いてくれない。どうだ、狩屋君。違うのか」
 狩屋はがっくりと肩を落とした。
「狩屋君。全てのことはこちらサイドで準備する。遺書も場所も提供する。君はただそれに従えばいい。家族のことは心配いらない。君は武士として立派に死んでいく。狩屋君。君は男になる。君は武士になる。まさに決断だ」
 狩屋は肩を落としたまま頷いた。
その後、事はマニュアルに沿って淡々と進められた。程なくして狩屋は死んだ。
ある日、俺は次官から突然の呼び出しを受けた。気分は高揚していた。俺はしっかりと務めを果たした。もはや次官からの信任は絶大だ。俺は意気揚々とした気持ちで、指定された料亭に向かった。
「狩屋君が死んだことは聞いた。実に残念なことだ。あれ程、使い勝手の良い人間はいない。ノンキャリではあったが、仕事は忠実だった。君、一体どういうことだ」
 意味不明だった。俺は混乱した。
「二課にもうひとり〈かりや〉がいる。私が君に指示したのは、死んだ狩屋ではなく、狩谷の方だ」
 俺は言葉を失った。本命は狩屋ではなかった。死ぬべきは狩屋ではなく、もうひとりの〈かりや〉、つまりは狩谷の方だった。しかし狩屋はもう此の世にはいない。
「勘違いも甚だしい。狩屋君には是非とも生きて欲しかった。この始末どうするつもりだ、刈谷君」
 身体全体が震えた。あの時の狩屋の表情が目の前に浮かんだ。
「刈谷君、君は一課の刈谷として、この件の責任をとりたまえ。狩谷君のことは、こちらで何とかする。君は君で責任をとる。但し、勝手な真似は許さない。全てこちらの指示に従ってもらう。遺書もこちらで整える。場所についても同様だ。もちろん、後のことは任せたまえ。悪いようにはしない」
 なぜだ。俺は自問自答した。なぜ俺が死ななきゃいけないのだ。
「刈谷君、君には本当に世話になった。君はエリート中のエリート、キャリア中のキャリア、スーパー刈谷とも言われた男だ。その男が自ら死を選んだ。最初、世間は怪訝に思う。噂も立つ。しかしだ。時が経ってしまえば、そんなことは皆忘れる。君が生きていたことも、何もかも忘れられるのだ」
激しい動悸が身体を揺らした。狩屋のあの表情がまた浮かんだ。
週が明け、俺の元に一通の郵便が届けられた。俺はそこにあった遺書に刈谷誠一と署名捺印した。